2012/03/20

父に関するいくつかの思い出

今朝、父の病室へ行ってきた。
神奈川にある病院まで、沖縄からだと往復で10時間かかる。

父は眠っていた。
2週間前に妻子と訪問したときより頬は痩け、生命力というものが希薄だ。
でも、息づかいだけが多少荒くなっているのが印象的だった。
人の気配に気づいたのだろうか、父がゆっくりと目を開き、天井を見つめたようだったので、思わず手をふった。
でも、その目に宿る力はすでに弱々しく、大好きな新聞を買ってこようかと申し出ても、意思表示はなかった。
それでもやることのない自分は新聞を買ってくるよと、早々に病院内の売店に逃げ込んでみた。
ローカル紙を手にして病室に戻ると、父は再び眠っていた。
よく見るとベッドの傍には、5日前に妹が届けた新聞が開かれもせずに置かれていた。
父の寝顔と呼吸するさまを30分ほど見つめ、病院を後にした。

両親は自分が7歳の時に離婚し、子どものころは、自分と母と妹の3人ぐらしだった。
いわゆる片親というやつだが、物心ついた頃からこういう状態だったので、不幸だとか、なにか足りないなどとは全く感じていなかった。
たぶん、さきの震災で家族を失った幼い子どもたちも多くが、あたりまえのように目の前の現実を受け入れているのではないかと勝手に想像している。
話をもとに戻す。

おそらく次に父と対面するとき、父はこの世にはない。
80歳、しかも胃癌が身体中に転移しているわりには、痛みもなく、
なのでモルフィネを投与されることもなくアタマはしっかりしていたので、
十分ハッピーな臨終なのではないかと思う。
少なくとも自宅で孤独死して、死後数ヶ月して発見されるよりはずっといい。

沖縄に戻る機上、とぎれることのない厚い雲海を見下ろしていたら、ふと父はこういうところに来るのだろうなという気がしてきた。
窓に面していないベッドスペースよりも退屈しないですむだろう。

こういうタイミングでもないと、父のことを考える機会は少ないだろうし、自分でも忘れてしまいそうなので、酔うがままにいくつか記しておこうかと思う。





・幼稚園児のころだと思う。父は毎週末お決まりの散歩コースがあって必ず小さな書店に寄っていた。そこで買ってもらった本やその散歩をリフレインされることなく、40年以上もすぎた今でも覚えているのが不思議だ。

・小学生の頃は、夏休みになると父の元で妹と二人で1週間ほど過すのが恒例だった。結局父は仕事で忙しく、父の事務所の職員の方としつけに厳しい祖母が自分たちの相手で、正直苦痛だった。母が私たち兄妹を引き渡す場所はきまって横浜駅ビルのレストランで、そこでの味は忘れてしまったが、今でも横浜駅を通り過ぎると、苦い未来が待っていそうな不安がフラッシュバックする。

・公務員を辞め、いわゆる脱サラをした父は、直後はブイブイ言わせていたようである。当時は珍しかった海外から何度も届くプレゼントは、日本の外への興味を大いにかきたててくれたし、友だちにずいぶん自慢した覚えがある。

・母が慎ましく私たちの生活を守ってくれている中、突然、BMWで現れた父。たぶん、中学生になる前の春休みか。でも父のことよりも、計器類がすべてドライバー中心に向いているデザインに、これはコックピットだと仰天、感動。デザインやアフォーダンスに興味を持ち始めたのはたぶんこのときからだ。

・父の事業はやがて頓挫し、そんななか、「善悪は裁判所が決める」といったような発言を耳にした。父を嫌悪し、恐ろしくも感じた。

・高校時代、「永井ってお父さんの話を全くしないね」といわれたことがあった。なんで、こんな些細なことを覚えているのだろう?

・自分の大学時代は探検部に入った。そういえば父は登山部だったと後で気づいた。

・3年前に久しぶりに会った坊主頭の父が、自分とあまりにも似ているのでおかしかった。母がそれを嫌がるのも。

・1年前、父の胃癌がみつかったとき、気の利く息子はエンディングノートを父にプレゼントした。2種類もね。でもそのノートは自宅に置きっぱなしで、何も記入していないそうだ。かなり図太い性格だということは再認識中だが、なんというか・・・。

・2週間前、初めて妻と娘を父に紹介した。父を結婚式に招待しなかったからだ。自分と妹にはすぐ、帰りなさいという父が、初対面の妻とずっと話し込んでいるのが嬉しかった。


さて、オヤジ殿。重力でベッドに縛り付けられている身体がそろそろうっとおしいことだろう。
あっちに行ったら、好きな登山や旅行をまた存分に楽しんでくれ。
とりあえず、こっちのことはなんとかしておく。


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